旅行記 メキシコ編 その1

 台湾、中国を皮切りに東南アジア、中南米、ヨーロッパと商品を求めていろいろ旅してきましたが、第一回目はやはり、「Sol y Luna」 の故郷、メキシコから始めたいと思います。

メキシコシティ 独立記念塔 March 2001 撮影 「初めてのメキシコ」

 大阪の国際見本市でメキシコの民芸品を出展していた「EL ARTE AZTECA」の MR.MENDEZ と知り合いになり、 1981年4月、何を血迷ったか、メキシコへ民芸品の買い付けにたった一人で行くはめになりました。
中途半端な英語しかしゃべれず、返事をされても理解できず、ましてやスペイン語などちんぷんかんぷんの身で不安だらけでした。
そのころはまだ、「関西空港」はなく、伊丹 → 成田 → バンクーバー → メキシコシティ と乗り継いでいったと思います。
JALの012便でした。
以前から海外での買い付けの経験はありましたが、今回はさすがにかなりのショックを味わうこととなります。
 日本を出たのは夕方6時、メキシコシティへ到着したのは、時差の関係で出発した日の夕方の6時くらいだったでしょうか。
時差が15時間ありますから、ちょうど15時間かけて到着したことのなります。
MR.MENDEZ が空港まで出迎えてくれて、ホテルまで送ってくれました。
ホテルは「ソナ.ロッサ」というところにある「カリンダ・ヘネヴェ」でした。 (日本からこのホテルに予約を入れる時、「ヘネヴェ」なのか、「ジェノヴァ」なのか、散々頭を悩まされました。 「ヘネヴェ」はスペイン語、「ジェノヴァ」は英語読みになるのです。)
東南アジアでしたら、ここで「お食事でもいかがですか?」と誘われるのですが、MR.MENDEZ は「それではまた明日・・。」と言ってさっさと帰ってしまいました。
写真 メキシコシティ 独立記念塔 March 2001 撮影
メキシコシティの市場から March 2001 撮影 「出会い」

 食事を取ろうにもレストランで何をどのように注文すればいいのかさっぱりわからず空腹を抱えながら、日本に電話をしようとオペレーターに申し込んだつもりが、 なんだかわけのわからない返事や質問をされて、益々チンプンカンプンになって、何とも情けない思いでいっぱいになってしまいました。
どうしていいかわからず悶々としていたとき、いきなり電話がかかってきました。 ホテルのフロントからだと、英語も聞き取りにくいし、スペイン語もまったくわからないので
「プリーズスピークスローリー」か「スピークイングリッシュプリーズ」かどのように返事をしようかと迷いながら受話器を取り上げました。
「ハロー」だったか「モシモシ」と言ったか「ブエノ」と受けたかはもう忘れてしまいましたが
「三好さんですか?」と受話器から日本語が聞こえてきたときは本当に驚いてしまいました。
「川端と言います。」
 最近メキシコに移り住んだ日本人がいて民芸品に係わっている人がいると聞いて何度かコンタクトを試みていたその人だったのです。
日本を出発するまで確認が取れず、忘れていました。
「そんなホテルに泊まっていても費用がかかるだけだし、よかったらうちへきませんか?」
なんと親切にも彼の自宅に誘っていただきました。
おかげで、心細い思いからも開放されました。
彼もちょうどその年の2月ごろ奥さんと娘さん息子さんの4人でメキシコシティーに移り住んでいたのでした。 2人の子供さんたちも小学生ぐらいで、活発で明るく日本との文化の違いを驚きをもって吸収しようとしていました。 本人の川端さんは勤めていた貿易関係の会社を辞めて「大好きなメキシコ」に来たとのことでした。
 今回の出張の目的は、メキシコ各地を車でまわって民芸品の買い付け、発注をすることでした。
アテンダーは先ほどでてきた、今は無き輸出会社「EL ARTE AZTECA」の MR.ARIEL MENDEZ DAZA、ことミスターメンデス(コットンデス)といろんな意味でのパートナー MISS.ANA の二人でした。 メキシコ各地の民芸品をより知るために川端氏も同行することになりました。
写真 メキシコシティの市場から March 2001 撮影
高速道路からの風景 March 2001 撮影 「買付け道中」

 いよいよメキシコシティーからクエルナバカ、トルーカ、パツクワロを経由してモレリアへ向かうことになりました。
MR.MENDEZ が用意した車は NISSAN のピックアップトラックで、前席は一列のベンチシートで3人がけ、後ろは荷台にカバーがついてカギが掛かるようになっています。
途中で買った商品を積み込んだままにしておけるようになっていました。しかし人間は4人です。
結局経済大国の日本(当時)から商品の買い付けに来たビッグバイヤーのはずの私は、とうとう荷台に乗ってメキシコ各地を旅することになってしまいました。
川端氏も私に付き合って一緒に荷台に乗ってくれることになりましたが、車がゆれるたびに二人ともあっちへ転がりこっちへ跳ね飛ばされ、あのころのメキシコの田舎道を恨めしく思い出します。
一方 MR.MENDEZ と MISS.ANA はドライバー席と助手席でロングドライブを楽しんでいるようです。
 第一日目はモレリアで宿を取りました。
翌日は、モレリアの市を見てミチョアカンを経てグアダラハラに向かいました。
二日目はグァダラハラのホテル・アランサスに泊まりました。
三日目はトナラの市、トラケパケの多くのインテリアブティックの店を見てその夜の宿泊地グァナファトへと向かいました。
グァナファトではとてもすばらしいコロニアル風のホテルに泊まりました。
また町の中は坂が多く中世風の建物も多くなんともエキゾチックな雰囲気に浸ることができました。 さらに各地で買い込んだ商品がどんどん増えて荷台を占めるようになり、4日間ほどの日程の間に床は商品で覆われてしまいました。
われわれ二人は荷物の上に横たわり、荷台のコンテナの中に閉じ込められてメキシコシティーに帰ってきたのでした。
写真 高速道路からの風景 March 2001 撮影
ソナロサの様子 March 2001 撮影 「帰国」

 MR.MENDEZ への発注も終わりトラックで買い付けた商品を5ケースのダンボール箱に詰めていよいよ日本へ帰る日になりました。
川端氏に付き添ってもらって朝の6時ごろJALのカウンターへそれらの荷物とスーツケースを持っていくと、
オーバーウエートがかなり掛かるとのことで「そんな馬鹿な」「もっと安くしてくれ」とすったもんだをしました。
とうとうあきらめてチャージを支払って川端氏と再会の約束をして機上の人となりました。
 全工程18日間ほどの出張でしたが、東南アジアへの出張では感じなかった食事でのトラブルなども結構あって 緊張感も高まっていたのでしょうか、飛行機が成田に着き、乗り換えて伊丹に向かったのですが、途中機内から富士山を見下ろしたときにはほろりときてしまいました。
伊丹空港に着いて預けた荷物がコンベヤーに乗って出てきました。
大きなダンボールケースが少し角がぼろぼろになっていますが、預けた5個とも無事に出てきました。
しかしどうしたわけか、いくら待ってもスーツケースが出てきません。 最後まで待ちましたが、とうとうスーツケースは出てきませんでした。
飛行機会社にたずねてもそのときはわからず、仕方なく家に帰りました。
写真 ソナロサの様子 March 2001 撮影
「保険のお勧め」

 幸いにも海外旅行傷害保険に入っていましたので保険請求をして保証を受けることができました。
どうやらメキシコシティーでチェックインのとき先に預けたスーツケースがどこかよそへ行ってしまいオーバーウエートでもめていた5個口の荷物とはぐれてしまったようです。
このとき以来、海外旅行傷害保険には必ず入るようにしています。 皆さんにもぜひ海外旅行損害保険に入ることをお勧めします。
 後日2ヶ月ほどしてスーツケースが出てきたと保険会社より連絡があり、一度支払った保険金と引き換えに紛失物を返します、と言ってきましたが、 もうすでに新しいものを買ってしまっていたので丁重にお断りしました。 このスーツケースはご主人様をさておいて、ニューヨークまで出張していたとのことでした。
このように、初めてのメキシコの旅は、最後までトラブル続きの忘れられない旅となりました。

「あとがき」

文中登場人物の川端氏とは川端惇さんのことで、現在は京都市内でメキシコ料理店エル・ラティーノを経営されています。
お店紹介記事掲載サイト(食べログ):http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260302/26000115/

July 22th, 2001 Writing by Shuichi Miyoshi, Edit by TJJ

>>TOP

ホームに戻る
Copyright© 2001 Miyoshi&Company All Right Reserved.